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奈良地方裁判所五條支部 昭和61年(わ)36号 判決

主文

被告人は無罪。

理由

一  本件公訴事実は、「被告人は、法定の除外事由がないのに、昭和六一年八月二六日午前七時ころ、奈良県北葛城郡新庄町大字北花内《番地省略》の自宅において、フェニルメチルアミノプロパンを含有する覚せい剤結晶性粉末約〇・一グラム(耳かき四杯分位)を水に溶かし、自己の右腕に注射して使用したものである。」というにある。

そして、本件証拠中には、被告人が右事実を自白した証拠が存在する。しかしながら、後記二のとおり、被告人の右自白を補強するに足りる証拠はないから、結局のところ本件公訴事実については犯罪の証明がないことに帰するといわなければならない。

二  検察官は、証人Bの当公判廷における供述、司法警察員作成の、写真撮影報告書及び捜査報告書により、昭和六一年八月二六日当時被告人の両腕関節部内側静脈に赤味を滞びた真新しい注射痕があったことを認めることができ、この事実と、被告人の本件公訴事実に関する詳細な自白並びに被告人に覚せい剤取締法違反の前科があること等を総合すれば、本件自白につき十分な補強証拠が存在すると主張する。

しかしながら、検察官主張の右各証拠から、検察官主張のとおりの注射痕の存在が認められ、このことから、本件公訴事実のとおりに被告人が自己の右腕に注射をしたとの被告人の自白につき真実性が保障されうるとしても、注射された内容物が覚せい剤であることについて被告人の自白の真実性を保障しうる補強証拠のない本件においては、覚せい剤使用の本件公訴事実につき被告人の自白を補強しうる証拠があるとはいえず、検察官の右主張は採用できない。

三  次に、本件審理において、検察官は、本件自白の補強証拠として、F作成の鑑定書(以下「本件鑑定書」という。)の証拠調請求をなし、これに対し、当裁判所は右請求を却下したので、その理由につき以下述べることとする。

1  本件証拠によると、本件鑑定書が作成されるに至った経緯につき、以下の事実を認めることができる。

(一)  警察官A、B、C、D、Eの五名は、昭和六一年八月二六日午前八時一〇分ころから午前八時四五分ころまで、被告人に対する覚せい剤取締法違反の被疑事実による捜索差押許可状に基づき、被告人方を捜索したが、目的物を発見するに至らなかった。その際Bは、右捜索に立会した被告人の態度から、同人が覚せい剤を使用した疑いを抱き、被告人に対し、「ちょっと事情があるので、五條署まで来てくれないか。」と申し向けたところ、被告人はこれを拒否しなかったので、右警察官らは、被告人を自動車に乗せて五條署まで連れて行った。

(二)  午前九時一〇分ころ、被告人らは五條署に到着し、同署防犯課取調室において、B及びCが被告人に対し、覚せい剤使用の事実の有無を尋ね、尿の提出を促したところ、被告人は、覚せい剤使用の事実を否認し、尿の提出については、当初「朝したので今は出ない。」等と言っていたが、次第に態度を硬化させ、一時間後の午前一〇時過ぎころから、「何も関係がないから尿を出す必要はない。」等と申し向け、尿の提出を拒絶するに至った。

ところで被告人は、右当日、既に回収していた廃品を業者に売却し、その売上金を親方のMに渡す予定をしていたが、既にM方に出向く時刻に遅れていたことから、午前一一時ころ、警察官の許可を得て防犯課の電話でMに対し、「今日は事情があって、遅くなる。」旨伝えた。

(三)  A及びBは、被告人が容易に尿の任意提出に応じないため、強制採尿に踏み切ることとし、午前一一時三〇分ころ五條簡易裁判所に強制採尿のための捜索差押許可状を請求したが、午前一一時五〇分こは、同裁判所裁判官は、疎明資料が不十分でその必要性がないことを理由に、右請求を却下した。

(四)  右請求却下後も右警察官らは、被告人を五條署内の前記取調室に留め置き、正午ころ、警察署で用意した昼食を被告人に提供したが、被告人はこれを食べることを拒否した。

(五)  一方Bは、再度強制採尿のための令状を得るべく、被告人の覚せい剤使用状況について五條署に勾留されていたNを取り調べ、他方A、C、D、Eの四名は、入れ替わりながら右取調室において被告人に対し、尿の提出を促したが、被告人は頑強にこれを拒絶し続けた。その間午後二時ころ、Nの供述調書が完成したので、Aは五條簡易裁判所に電話で令状の請求をすると伝えたところ、裁判官が不在である旨伝えられた。そこでDが、葛城簡易裁判所に赴き、午後三時ころ同裁判所に対しNの供述調書を疎明資料に加えて、被告人から強制採尿を行うための捜索差押許可状を請求したが、右裁判所裁判官は資料不足を理由に右請求の取下げを勧告した。そこでDは、午後四時すぎころ、その旨を五條署のAに連絡したところ、後記(七)のとおり既に被告人より尿を採取したから右請求を取り下げるよう指示され、右請求を取り下げた。

(六)  その間の午後二時三〇分ころ、被告人は警察官の許可を得て防犯課の電話で被告人の母L子に対し、「もう帰るから車を手配してくれ。」と依頼し、車の手配を終えた被告人の母が午後三時ころ五條署に電話をしてその旨を伝えたところ、電話に出たCは、「心配しなくてよい。もう少ししたら警察の方で送っていく。」旨返事をしたが、その際取調室にいた被告人に対しては、母親から電話があったことを伝えなかった。

(七)  午後四時ころに至り、被告人は、尿意をこらえきれなくなり、Bに対して「トイレに行きたい。」旨告げたところ、B、C及びEは被告人を便所内まで連れて行き、便所内において、BとCは、被告人が警察官によって用意したポリ容器内に排尿中、被告人の真近にいてこれを監視し、Eは排尿直後の被告人を写真撮影した。その後被告人は、尿のはいったポリ容器を警察官に渡し、前記取調室において、警察官が差し出した同意書及び任意提出書に署名し、指印を押したが、その際被告人は、右同意書の「同意書」と印刷された上部に「仮」と、右任意提出書の提出者処分意見欄に「用済後返して下さい」と、各記入した。

(八)  その後被告人は、警察官の車で被告人方まで送られ、午後五時半すぎころ帰宅した。

(九)  右のようにして採取された被告人の尿につき鑑定がなされ、本件鑑定書が作成された。

2  そして、証人A、同B、同C、同Eの当公判廷における各供述及び司法警察員作成の捜査報告書中には、被告人が五條署に留め置かれた間、被告人は帰りたい等ということを一切言ったことはなく、また被告人は素直に尿の提出に応じたもので、右同行及び尿の提出は、いずれも被告人の同意、承諾のもとになされたものである、旨の供述ないし記載部分がある。

3  これに対し、被告人の当公判廷における供述中には、被告人が五條署に連れて行かれた当初から、警察官らは、被告人に対し、「お上にたてをつくのか。」とか「早く尿を出せ。」等と申し向けて威圧的に尿の提出を迫り、被告人が「仕事があるから早く帰してくれ。」とか「昼やし、早く帰してくれ。」と申し述べたのを黙殺し、正午前までに険悪な状態となったので、被告人は警察官から出された昼食を食べなかったものであり、被告人は、午後一時半ころ取調室を退室しかけたら警察官が足で取調室の戸を開けないようにしたので、それ以上退室を強行して公務執行妨害罪に問われる事態になることをおそれ、あえて退室しなかったものであり、被告人は、尿の提出に同意していないが、以上のような警察官からの長時間にわたる威圧のもとで、尿意をこらえきれなくなって、警察官の指示に従ってやむなく尿を提出したが、その場で被告人になしうる限りの反抗として、同意書に「仮」の字を記入し、任意提出書にも「用済後返して下さい。」と記入したものである、旨の供述部分がある。

4  右1認定の事実関係からすれば、右2の任意同行に関する供述ないし記載部分は到底信用できず、かえって、被告人は警察官らに対し、早く帰してくれと言ったが黙殺され、そのため昼食をとらなかった、との右3の被告人の供述部分は信用することができる。そうだとすると、被告人は警察官に対し、早急な帰宅を要求し、警察署で用意した昼食もとらなかったのに、警察官は被告人を帰宅させず、前記取調室に留め置いたものであるから、遅くとも被告人が昼食を拒んだ正午ころから以後の右留め置きは、任意の取調の域を超えた違法な身体拘束といわなければならない。

また、被告人からの採尿は、既に認定したとおり、違法な身体拘束がなされて約四時間後に被告人が尿意をこらえきれなくなったことを契機になされたことと、同意書及び任意提出書の被告人による前記記載及び排尿時に三人の警察官が被告人を監視する等していた状況からして、任意提出であるとの右2の供述ないし記載部分もまた信用できず、かえって、被告人は警察官からの威圧のもとでやむなく警察官の指示に従って排尿したもので、尿の提出に同意していない、との右3の被告人の供述部分は信用することができる。そうだとすると、本件採尿は、警察官が被告人に対し有形力を行使して採尿したとまでは認められないものの、約四時間もの違法な身体拘束を利用して、無形の圧力のもとで、被告人の真摯な同意、承諾なしになされた違法なものといわざるをえない。

5  本件鑑定書は、以上のとおり違法な採尿手続により採取された尿を利用して作成されたものであるところ、既に認定したとおり、本件採尿は、被告人に対する強制採尿のための捜索差押許可状の請求が却下されたにもかかわらず、引続き被告人の身体を拘束し、これを利用してなされたものであることをも併せ考えれば、その違法の程度は、令状主義の精神を没却する重大なものであり、本件鑑定書を証拠として採用することは、将来における違法な捜査の抑制の見地からしても相当でないものと認められる。

よって、当裁判所は、本件鑑定書の証拠調請求を却下したものである。

四  以上の次第であるから、刑事訴訟法三三六条により、被告人に無罪の言渡をすることとし、主文のとおり判決する。

(裁判官 礒尾正)

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